中元大輔の自己紹介

はじめまして、NBC代表の中元大輔です。

去年64才になりました。

周囲から若く見えるとよく言われますが、気持ちだけは20代です笑

自由に生きてきて社会の枠から半分以上はみ出して生きてきました。

なのでしなくてもよい事も含めて、人生経験だけは人には負けないぐらいしたかもしれません。

DAISUKE
正直言うとしなくていいほうの経験の方が、多いかもしれません笑

 

 

ここからは長いので私に興味のある方だけ暇つぶしがてら読み進めて下さい。

運と欲望だけで、生きてきたと言っても過言ではありません。

そのため正直過ぎて言いたいことを言い過ぎて相手を傷つけたり、自分も傷ついたり、しなくていい痛い経験や人間関係の摩擦もたくさん味わいました。

 

よく初対面の方から会話の糸口なのか「中元さん趣味とかなんですか?」と聞かれます。

趣味は基本深い趣味はないので無趣味ですと答えると会話が続きません。

微妙な空気が流れます笑

その代わり好奇心旺盛なので、危ないことと痛いこと以外は、何でも軽く挑戦してみる感じです。

B型なので、ハマるととことんいってしまうのですが、熱は冷めやすいです。

昔 熱帯魚にはまり水槽が10個部屋を占領してたこともありました笑

最後はイタリア製の水槽になり熱帯魚屋さんが遠いとこから管理しに来てましたが飽きてしまい、友人が着ていた服と水槽&飼ってた魚や中身ごと(ディスカスやカージナルテトラ等の魚とアヌビアスナナの水草や流木など)交換しました。

 

 

好きな事は知らない土地に旅行したり安くて美味しいものを食べにいったりする事です。

もしかしたらそれが趣味というのかもしれませんね

 

海外はあちこちたくさん行きましたが特にヨーロッパの雰囲気が好きです。

ヨーロッパはオランダ、ベルギー、ドイツ、スペイン、ポルトガル、イタリアと行きました。

アジアは韓国、中国、インドネシア、フィリピン、台湾、香港、タイですね

1980年代の後半韓国ソウルに3年ほど住んでました。

 

 

あとバスケは仕事が忙しくて今は休憩中です。

 

先日中国で工場の社長さんと仲間たちと少しだけバスケしました。

 

 

 

現在自分自身も起業家でありますがNBCプレミアム会員を中心とした、NBC TRUST MEMBERS(NBC信頼会員)というコミニュティを通じ専業副業、男性、女性にかかわらず起業家の方々の業績UPのお手伝いをさせていただいてます。

NBCプレミアム会員は今の形でサポート開始後、現在で7年が過ぎました。

それより前を含めると10年になります。

 

これ以降は直近10年から幼少期までの自分自身について書いてますが、私に興味のある人以外は長いので見ないでください笑

「中元組」から始まったNBC新中元組

NBC新中元組とありますがNBCはNakamoto Business Clubの略称で新中元組とは何かと言うと、元々中元組というのがありましてただ気ままに集まって飲み会やBBQなどのイベントなどをやろうといういわば同じ方向を向いた仲間のサークルのようなものでした。

元々わたしの周りにいた同じビジネスを通じた仲間と集まって遊んでいただけなのですが個性的なメンバーぞろいでなぜか目立ってしまい周りの方たちから徒党を組んでるように見えたのか「中元組」と呼ばれるようになりました。

なので"組"といってもけっして怖い集まりじゃありません!

顔と、声と、雰囲気は、怖いとおっしゃられる方もいらっしゃいますがけっしてそうではありません。

2014年5月お台場BBQイベント

中元組を決定的にしたのは10年前にお台場での同じ方向を向いた仲間200名を集めた伝説のイベントが始まりではないかと思います。

この頃は売上が倍々ゲームのように伸びてゆく夢のような時代でした。

BBQやろうと仲間たちと話してるうちにお台場のBBQ会場の予約が取れたためノリで200人呼ぼうとなってしまいました。

しかし業界のひとなど今の様に知らない人だらけです。

今もそうですがその頃は今よりさらにそのイベントを主催する私の事など知る人は誰もいません。

ましてどこの馬の骨かわからない私のイベントなど正直誰も見向きもしません。

そう言ってもやると決断した以上やらないと男がすたります。

色々な場所を検討下見した結果抜群の場所を見つけました。

BBQイベントの裏話

見つけた会場はここが本当に東京都心かと思うぐらい広くていい場所でした。

というか場所はうまく見つかったけど実際何百人も集めるような大きいイベントなど生まれてこの方やったことがありません。

このころは2013年から始めた中国輸入ビジネスが激伸びし、爆発的に業績が上がる過程で、外注化せず全部自分とこでやってましたので時間的、精神的にも余裕はありませんでした。

でも一度言い出したので性格的に引き下がれません。

それに大きい場所でやるとぶち上げたからには、場所に見合った人数を集客できなければ大恥です。

頭の中にやる気と不安が交錯しました。

 

「集客なんていっこもわからん どうしよう」と悩みました。

それである人から「ランディングページを作成し業界で有名な人の紹介文があればいいのでは」とアドバイスを受けました。

1,2度お会いしただけで、少しだけ知っていた業界で有名なTさんとIさんに勇気を振り絞り無償で紹介文を書いていただくお願いをしました。

電話や直接会ったのでなく苦手なチャットメッセージで、しかも無謀なお願いだったのでメッセージを送る際ドキドキした事を今でも覚えています。

お願いした最初「バックエンドはありませんね」とお二人から聞かれました。

実を言うとその時は、恥ずかしい話「バックエンド」と言う言葉の意味がわからないので何の事だか意味不明でした。

いまではわかるのですが、要はBBQで集客した大勢の人たちにフロントエンドがBBQで、そこで集客した人達に「バックエンド」高額塾や教材などのセールスが控えてると言う意味の事です。

そこでお2人の方と紹介文を書いていただく代わりに、最初に中元組の名前を使ってよくあるバックエンドのお金儲けに引き込まないという暗黙の約束をしました。

そしてお2人とも紹介文を書くことを快諾してくれました。

 

「ただ集まった人たちが喜んで楽しかったら自分も楽しい」「同じ方向向いた孤独な仲間に縁を提供できたらいい」と思い、イベントでお金を儲ける事などまったく考えていませんでしたので、バックエンドの意味は解らずとも参加してくれたみんなを喜ばす結果だけを考えて、俺は男の約束したという事です。

でもお金を儲ける事を考えなくとも、大人数の大きいイベントになればなるほど経費がかさみ幹事は大変です。

いい店や場所ほど最低保証金などの制約があります。

お金の責任以外に、”殆どがアルコールの入った200人”ともなるとアクシデントやトラブルが起きないとも限りません。

実際過去のイベントで何度かトラブルはありましたが、お陰様で大事になった事はありません。

2次会の場所への誘導に気を使ったり、BBQ時にも気を配らなければなりません。

なのでBBQイベントの時から大きいイベント時は、何度も場所の下見や出される料理の味やお店の雰囲気、担当する従業員の態度等を見に行くようになりました。

特に気合い入れてるときは、手土産持参で打ち合わせに行ったりもします。

そうしておくと、こころなしイベントに来た皆さんに対して、店側の対応が良くなるというか気合いを入れて接してくれます。

そんな事を知ってか知らずか「いつも中元さんが選ぶ店は料理も美味しいし店の人も感じがいいですよね」と言ってくれる人も増えてきました。

そんなときは、心の中でしてやったりの気持ちでほくそ笑んでいます。

イベントの前に下見に行く事をある人に「なぜそこまでするのですか?」と驚かれたことがありますが、俺が主催したイベントに来てくれた人を喜ばしたい一心で下調べするのが当たり前になりました。

それでも平気でドタキャンする人や申し込んでいないのに途中から気が変わり、断りなしに2次会3次会にお金を払わず参加する人など、中国輸入業界はいろんな人がいるというのもこの時わかりました。

 

NBCの始まり 新中元組のきっかけ

余談ですが、ビッフェ形式のパーティーを何度かやったときの事です。

列に並ぶのが遅れた女性にメインの料理がいきわたらなかったことがありました。

折角来られてる女性起業家の方たちを喜ばそうと思い、事前に打ち合わせをして女性向けに用意しました料理が並ぶ以前に早々と無くなってしまったのです。

その為NBCのイベントは全て女性が優先がルールになりました。

またテーブルに花を置いてイベント終了後女性のみですがその花を手土産にしたりもしています。

集まりにはNBCのために楽しい写真を撮りに来てくれるプロの方々も、全て厚意の無報酬交通費自腹で来ていただいてたので、今後何をするにも最低限の会費は必要ではないかとなり、中元組を継続するためには会費制にしないといけないとなりました。

なのでNBC新中元組を立ち上げるときに、新しい中元組で最低限の会費をいただくことになりました。

しかし「中元組」BBQのイベント時に約束した、お2人の了解を得ることができなければ、男の約束でしたのでNBC新中元組をやるつもりはなかったのです。

お2人に筋を通し、「こうこうこういう形で新しくNBC新中元組をやっていいですか」と断りを入れるとお2人とも快諾していただき、NBC新中元組を立ち上げることが出来ました。

で、色々な人たちと交流していくうちに、徐々にビジネスの相談をうける機会が増えていきました。

また相談時に自分自身が爆発的に伸ばした手法や基本の土台についてアドバイスしていました。

最初はただ相談を受けていただけでしたが、そのうちもっと個人的に教えてほしいと言われる方が増えていき、自然の流れから2016年11月よりNBCプレミアム会員サポートを開始いたしました。

現在は月額課金月謝制スーパープレミアム会員サポートにかわりました。

そして2018年の10月よりプレミアム会員コンサル卒業生と受講生の方混合で信頼できる仲間の集まりNBC TRUST MEMBERSを結成いたしました。

 

先日大阪方面に行って何人かの方々ともお会いし近況を聞いたところ、今になって売り上げが伸びてきて好調だとの話を聞き自分も嬉しくなりました。

自分のお金儲けを優先する塾やスクールばかりなのに、コンサル生の結果が出るためだけを、頑張るのは中元さん以外見た事ないとまで言われました。

持ち上げ過ぎだと思いますが、でも実際そういう気持ちで取り組んでいるので間違いではないと思います。

 

 

 

 

今でこそ、中国輸入ビジネス専業で、食べることができその方法を人に教えることもしていますが、それでも私のことを知っている人はネットビジネス界で、ほとんどいないと思います。

 

なのでここまで最近の事を書きました。

 

もっと俺の事知りたいという方はいないかもしれませんが、これから後は簡単に今までの略歴を書きましたので、見ていただければ嬉しいです。

 

人とのつながり、大事なのは人という価値観を育てた私の幼少期

 

私は兵庫県神戸市出身ですが、家が喫茶店と生地屋さんなど商売人の家でしたので、子供のころからたくさんの大人たちを目の前で見て成長してきました。

お金に目がくらんだ大人たちや、水商売でしたので、男女のトラブルを子供ながら目の当たりに見たり、環境は正直教育上よろしくなかったですね。

そのおかげで別の意味で教育を受け、周りの同級生の中でもかなりませた少年でした。

私の子供のころは景気も良く家の商売も繁盛していたのか、1日の小遣いを1000円も、使って遊んでいました。

完璧ボンボンてやつですね。

少年マガジン、サンデー、キング、ジャンプ、チャンピオンなどなど、角の四角い閉じ方をした少年誌と呼ばれる週刊で発行される漫画雑誌を毎週全種類買ってました。

もらったお小遣いの有り金を漫画とおもちゃと友達との買い食いに使ってました。

しばらくし、日本の景気も悪化していき、徐々に環境が変わって行きました。

段々と、おかんがヒステリックになってきて自殺未遂事件まで引き起こし、神戸の加納町にあった店まで従業員の不始末なのか漏電なのか不明のままでしたが、火事になり全て無くなりました・・・・

更に、おやじの生地屋も博打でできた借金のかたで廃業せざるをえなくなり、いきなり家族ですごく狭いアパートに引っ越したのを覚えています。

そんな家庭に生まれ育ったので普通の人生に憧れていましたが、やはり元々持ってる性分により、まとな道は歩みませんでした。

ただ時代背景がぬるかったのか自分の好き勝手に生きてきてもなんとかなりました。

私は運がよかっただけでなく目に見えない所で周りの人に助けられて今まで来れたのだと思います。

 

 

神戸から大阪~東京へ

直近のことをお話ししますと、3年ほどの韓国留学から帰ってきて神戸でちいさな商売をしていました。

儲からないのですぐにやめて大阪のアパレル系貿易会社で働くようになりましたが、これまた不幸にも倒産してしまいました。ただ運良くそこの取引先からヘッドハンティングされ1年ほど東京で働きました。

時代はちょうどバブル崩壊失われた20年の始まりのころでした。

東京のその会社もバブル崩壊によりまたも倒産してしまいました。

どうしようと思ってた矢先、

 

『大阪に空いてるええ物件があるから店でもせえへんか〜』
と知人から声がかかり関西に戻って大阪で商売を始めることにしました。

 

そこの物件の家賃は最初ひと月50万でした。半年後30万になりました。

実はこれにはカラクリがあり、あとでわかったことですが、そこの本当の家賃は10万でした。

抜かれまくってたんですねぇ

高いのは承知でしたが話を持ってきた人を仲間と思い信用しきってました。

今考えるとアホです。

紹介してくれた人の手数料がすべてのものに乗っていました。

仕入れる商品すべてにも・・・・・・

私は仲間でない人はあまり信用しませんが、一度、仲間と思ったら全く疑うことをしません。

騙されたことを信じたくなくてニコニコ笑ってる知人がまさか抜いてたなんてありえないです。

「その抜かれた金で奢ってもらってしらずにごちそうさまですって、言ってた俺、アホと違うか?」

そんな気持ちを必死で打ち消すために『くそ~ 負けてたまるか 男の意地や』と思い365日休みなくがむしゃらに10年間働き続けました。

毎日どうすればお客さんが喜んで買ってくれるのかそればかり考える毎日でした。

いくら頑張ろうと世間の不況淘汰の大きな波には勝てずに売上は降下の一途をたどりました。

恥ずかしい話ですが最後は店の2階の倉庫で寝泊りするまで追い込まれました。

時代の波と変化についていけず、莫大な負債を残し廃業せざるをえなくなりました。

カネゴンたち

すると・・・

タイミングよく東京にいた友人から声がかかりまた東京に上り共同事業をはじめました。

今度は逆に儲かりすぎるほど儲かりました。

その事業は何人かではじめており、またそれぞれが私より凄い負債を抱えていたこともあり、事業が儲かり始めた途端みんなの目の色がかわり全員カネゴンに変身してしまい空中分解してしまいました。

カネゴンとはWikipediaより引用

カネゴンとは、1966年(昭和41年)に放映された、円谷特技プロダクション制作の特撮テレビ番組『ウルトラQ』をはじめとする「ウルトラシリーズ」に登場する架空の怪獣。別名はコイン怪獣。英字表記はKANEGON

『ウルトラQ』に登場する怪獣の中で最も知名度が高いとされる。お札や硬貨を主食としており、常に食べ続けていないと死んでしまう。

友人たちは自分の取り分だけを取るだけとってダメになった途端蜘蛛の子を散らしたようにどっかにいってしまいました。

私はくそまじめに前の店の負債を払っていましたので、そんなにお金は残りませんでした。

 

そんな時、上野駅近くを歩いていたら偶然東京で働いた会社の時の上司にばったり出会い、自分で独立して会社を立ち上げると聞かされました。

朝まで飲んで他にすることもないし一緒に事業をやろう!ってことになり、私の残ってた金の中から300万を出資して2人で貿易会社を立ち上げました。

見本市にも出展し、見込み客に営業をかけるなど事業は順調に見えました。

しかし、実際には会社の資金繰り的なことは全く話しておらず、先輩にまかせっきりでした。

私が自分勝手にうまくいってるものだと思い込んでいただけで内情は全く別でした。

だいじな仲間の裏切り・自信喪失・・・どん底から心に成功の炎を

 

ある日出社すると狭い事務所内がえらくすっきりしているのです。

ふと私の机を見ると、置手紙のようなものがありました。

上司は全てをもって夜逃げしてしまいました。

仲間だとおもって完璧に信用してました。

怒りとか絶望感とかではなく、膝に力が入らず、口の中がどんどん苦くなってきて、言葉で言い表せない気持ちになりました。

昔、若かった頃はダメージを受けてもそれなりに復活が早かったのですが、さすがにその時のダメージは強烈で、堪えがたいものでした。

それから人間不信に陥り部屋に引きこもりました。

 

昼間は人と会いたくないので夜に少しだけ弁当を買いにコンビニへ行くぐらいで、3か月間真っ暗けのなかで引きこもりました。

 

彼女は大阪にいましたが電話で俺を常に奮い立たそうとして、『ハローワークにでも行って仕事を探して・・』と言い続けました。

まさか。こんなことになるなんて・・・ なんでや ホンマ俺はアホや

そんな思考が頭のなかをぐるぐる回って、そんな生活から抜け出せなかったのですが、ある日突然、急に視界がひろがりました。

「おれはなにやっとんじゃ!」

心に小さな炎が燃えだしました。

ハローワーク通い

歯を食いしばって勇気を振り絞り、ベットから飛び起きました。

私は今まで人の紹介などで仕事を見つけ来たためハローワークで仕事を探したことなどありませんでした。

今回はそうもいっておれないので生まれて初めてハローワークで仕事を探しました。48才の時でした。

希望した仕事ではありませんが雇ってくれたとこは小さなブラック企業でした。

2件をかけもちしましたが、結局は続かず退社し、再度ハローワーク通いの生活が続きました。

何のコネもつながりもない東京の現実は中年の私にはとても厳しいです。

私にとってその時の世間は予想以上に暴風が吹き荒れる、荒海で何度も溺れて挫折しそうになりました。

やっと見つかった職場

ようやく見つかった就職先は、大企業にへばりつき小さな権益で食ってる業歴40年の会社で、しかも親子経営。

いわゆる古い体質の経営です。

現場で働いてる人たちは、職人気質ですが本当に純粋で心の綺麗な人たちでした。

いままで私が出会ったことのない生き方の人たちでした。

そこは古いいびつな親子経営なので経営陣とより近いポジションである、営業職の人は長続きせず、また私が入社したころは過渡期でしたが、時期が来れば安定して仕事が来るのでまともな営業マンは1人も在籍していませんでした。

そこで私はこの企業にパート営業社員で就職し、時給1000円からスタートして頑張りました。

得意先である大企業のエリートサラリーマン達は、数々の修羅場をくぐってきた私にとっても、けっして侮ることのできない、頭が良くて手強い相手でしたが、1度信用してもらうと頭がいい分話が早くてやりやすい相手でした。

飼い犬と一匹狼の違いですね。

営業として会社の業績を激伸びさせた実績で、3年待たずして全てを仕切るまでなり、年収も1000万ちかくまでなりました。

有給消化などあり得なかった古い体質の半ブラックな会社が、3週間も休みをとらせてくれて、スペイン~オランダ~ドイツのヨーロッパ旅行にまで行ける様になりました。

「おれにはここしかないんや」

だんだんそう思うようになって行ってました、、最初入社し働きはじめたころあまりの現実についていけず、すこし頭がおかしくなりかけてました。

「俺はたぬきとキツネの会社に就職して給料は葉っぱで俺は騙されてるんか?」

「いや俺自身が元々人間と思ってたけど俺は自分で気づいてないだけでほんまはキツネかたぬきで、俺以外みんな人間ちゃうか?」

「あいつたぬきのくせに人間の職場で働いてやがる」と、みんなに裏で絶対笑われてるんちゃうかと。。

「380円のあの弁当を毎日食いつづけたら脳が溶けて、みんなみたいに命令に逆らわれん奴隷になってまうんや」と、錯覚するような感覚になってました。

しかし、これまで派手に生きてきて、財布の中の金を残さず全部使うような人生を過ごしてきた私が、ここで380円の弁当を食べ、一生懸命働いてる人たちと一緒に働いていくうちに、地味だけど、だんだんここが自分の最後の職場なのだとおもうようになりここに骨をうずめる覚悟でした。

中国輸入ネットビジネスとの出会い

 

そこで5年働きましたが、結局やはり私は自分らしく生きることを選んでしまいました。

本意ではありませんでしたが、ある日、社長と意見が合わず、急にやめることになり、またもや暴風吹き荒れる荒海に飛び込みにいってしまいました。

今度は世間の状況や年齢のせいもあり俺を雇ってくれる所なんか、そう簡単に見つかりません。

少しの蓄えを株とFXにつぎ込み危うくスッカラカンになる寸前で、中国輸入と出会いました

このままでは確実にやばい

なにか食えることはないかネットを見ていたら中国輸入と言う言葉を見つけ、ある教材を買ってみました。

世の中凄いな、こんなことで飯が食えるんや・・・信じられんな・・・とおもいました。

2回ほど読んですぐにタオバオ中国仕入れを実践しましたが世の中そんな甘くありません。

黄色いテープでぐるぐる巻きにされた段ボール箱に入って送られてきたものはゴミ以下の商品でした。

私も商売人であった以上、

「こんなもの売ってお客さんから金とれるか━━━━!!」「こんな滅茶苦茶な商品 検品なしで売るわけにはいかん」
と思い、どこか安く検品してくれるとこを探してたら、【誰と組むかだ】と言うキャッチコピーの、変わったHPを見つけました。

これはおもしろいやんとおもい、若いのにこんな人おるんや、すぐにメールしたら、いま日本にいますので会いましょうと社長自らすぐに返事をくれて、半信半疑でしたがすぐに会いに行きました。

この社長こそ、私が中国輸入にかかわるきっかけの、S社長との出会いでした。

話はとんとん拍子に進み義鳥に行く事になりました。

「なんかようわからんけど騙されてもおもろいから一回ついて行ったれ」

そう思い2013年の3月に義鳥に行ってきました。

この方がいなければ今の私はありません。本当にこの方と知り合えて良かったと思います。

まさに前の職場で感じた

結局、最後は人のつながりやって事です。

最後に

 

中元組から始まり約10年が過ぎました。

10年間で、自分自身と環境も大きく変化しましたが、中身と土台の考え方は、ほぼ同じです。

こんな私ですが興味を持っていただいて有難うございます。

今後とも何卒宜しくお願いいたします。

2018年12月17日